2025年2月日本行き 皆さんにお目にかかれて嬉しかったです

遅れましたが、日本旅行中、風邪も引かず、無事帰ってきました。ずっとマスクをしていて、飛行機の中ではシートを除菌しまくってました。

お客様にも、また、ブログ購読者様たちともお話ができて良かったです。

去年に続いて、関西をよりよく知る機会となりました。

もともと東京出身で、地方のことをあまり知らなかったのですが、東京はあまりにジャングル過ぎて、地方がそうでないことがわかって、東京は、「あまり行きたくないが、用事の為行く」デスティネーションとなってしまいました。

今回の旅行で特に感動したのは、倉敷市の大原博物館のコレクションの由来。

ピカソやモネ、ゴーガンと、一般人にっとっての有名どころがたくさん揃っている一地方美術館なんですが、ポイントは、どうして、大原家が、1930年という早い時期において、国立近代美術館に肩を並べるレベルのそのようなコレクションが実現できたのか、という観点。

ざっと見たところでは、

明治時代、成功を収めた倉敷の実業家大原孫三郎が、社会還元の一環として、洋画家・児島虎次郎に援助をすることにした。その関係で、児島ら、当時のパリへの留学者サークルに、絵画の買付を任せたことが成功のポイント。

つまり、日本人の西洋絵学習をサポート、それと同時に、現地で西洋画の買付担当に当たらせため、美術商やキュレーターのような中間ソースをカットして、リアルに当時の新興タレント発掘ができた。

という仕入れの原点のようなサクセスストーリー。

私の仕事は不動産投資ですから、「安くいいものを買って、大事に管理し、後で資産価値がアップ」するこのサクセス・モデルに興奮するわけです。笑

児島は、自分自身が、当時、アーティストとして、パリで、日本を代表するため頑張っています。それが、フランスで知り合い、惚れ込んだ相手に、同じ芸術家として、あるいは弟子として、「あなたの超一流のアートを日本で見せて、日本人の目を肥やさせてあげたいのだ。フランス人だって浮世絵を見て、影響を受けたでしょう?」と頼み込むのですから、モネも、マティスも、断れないわけです。

私自身、子供の時から写真でよく見て育った絵画がたくさんおいでありました。

エル・グレコの『受胎告知』やトゥールーズ・ロートレック『マルトX夫人の肖像、ボルドー』など、いずれも、多分、日本に大原美術館があり、版権利用などが比較的容易だったために、日本国内で流通する書籍などで広く見ることができていたんだったんだと、思い至りました。

私達一人ひとりは、微力で、普段は、世界に影響を及ぼすなど思いも及びませんが、でも、一人ひとりが自分にできることをやっているとき、爆発的な力を発揮することもあるんだなあと。

大原家の大原孫三郎の発明力や商才は容易には真似できませんが、画家児島虎次郎ら当時の日本人洋画家たちは、優秀とはいえ、後世の目から見ると、天才というよりは、普通の頑張り屋さん。

しかし、彼らは、当時、ちょっとしたリスクを取り、【洋画家になりたい、本場フランスで勉強したい】などという《変わった》夢を抱きます。その御蔭で、大原孫三郎に支援を受けることができるようになり、最後には、画家として以上に、キュレーターとして、日本にとって大きな貢献をしてくれたんだなと感じます。

大原孫三郎の当時の事業は、現・クラボウに由来する絹、繊維。

繊維で資産を作った商人がパトロンになってできた美術館と街、倉敷。

今どきの私達にとっては、歴史の授業でしか学ばない世界です。うちの子どもなんか、その学んだ内容自体おぼつかないレベルでしたが、このテキスタイルで築いた富が、その後、形を変えて、今も、日本の資産となっており、私達ひとりひとり、今でも、その恩恵に預かることができているわけです。

東京にいると、全く思い至らないこの歴史を体感できるのが関西の魅力ですね。

敷地内はあまり写真を取ってはいけなかったので、ほとんど残していませんが、倉敷市自体、こういった資産保全を、多方面から大切に行っている様子が素晴らしかったです。このテキスタイル業の伝統は、現在、ジーンズという形で、世界に発信もできているようで、こういう世代ごとの革新も大切ですよね。

歴史に触れると、私も、「凡人の自分が、自分の立場にあってできることはなんだろうか」と不遜ながら考えてみたくなります。

日本からアメリカに行くことで、米国不動産の最先端を学び、それを、また日本の方々にお伝えする、そんな、自分の役割にも意味があったのではないかと。

これが旅行の醍醐味ですね。それでは、皆さん、次にお目にかかれるときまで、ごきげんよう。